生まれた時
生後2週間が経過し、母と退院してやっと家に帰ってきたと思ったら…肺の喘鳴が聞こえて再び病院で診てもらうと…「隔世遺伝の喘息」と診断されたらしいです。
物心ついた頃には、毎日喘息の飲み薬と吸入を欠かすことはできず、年に何度か発作を起こしていました。真夜中に救急病院に運ばれることも何度もありました。その都度入院して、点滴と酸素マスクの生活を数日送る…そんなことを繰り返していたのを記憶しています。
幼いわたしは、それが何なのかもわからず「カクセイイデンなの」とまわりの大人たちに説明していました。詳しいことがわからないながらも、わたしの「喘息」は祖父母から受け継いだらしいことと、故にしっかり血が繋がっている証明だということがわかっており、漠然と「ここの家族の一員である」という感覚がありました。それが一体感とか安心感に繋がっていたように思います。
そして二つのことを、よく考えていました。『今後自分が大人になり、いずれ「孫」ができれば、私と同じように発作で苦しませてしまうかもしれない』ということ。
そして『母がわたしの看病で大変な思いをしているように、自分の子供にも同じように苦労をかけるかもしれない』ということ。
その、まだ見ぬ遠い将来像は、喘息の発作で身体が苦しいとき以上に、苦しすぎる悩ましいものでした。
でも、祖父母や両親を責める気持ちなんて、これっぽっちも無かったんです。ただただ「自分」がその悲しい連鎖を断ち切らないといけないな…なんてことをよく考えていました。
今こうして客観視すると「ネガティブな思い込みが激しいな」と思いつつ「可能性はあっても、絶対じゃないよ」って教えてあげたい。
でも当時の、幼いわたしにとっては、それが真実であり根本的な解決であり、無知な自分自身にできる唯一のアイデアだったんでしょう。
こどもの時
喘息の発作が起きたときは、全てのことを諦めないといけなくなるのですが、それ以外のときは、同月齢年齢の子たちと比較して背も大きく、走るのも速く、口も達者で、男の子勝りな部分も多くありました。
裕福ではない家庭環境で育ち、大人の気まずい空気を察する能力を、自然と身につけたこどもでした。
そして学校の先生の言わんとしていることを瞬時に察して、その期待に応えることも得意な方だったと思います。
4つ違いの兄がいたおかげで、文字の読み書きも早くから身につけていたからか、勉強を苦手に感じたことはなかったと思います。短距離と鉄棒と絵を描くことと本を読むのが大好きでした。
喘息の発作で入院するときや、家庭事情のことなど、いつでも「かわいそう」と思われること言われることを、人一倍強く反発する気持ちがありました。
その点は大人になってからも、変わらないところでした。そういう性格のおかげで頑張れたこともたくさんあったけれど、弱い部分を見せるのも苦手なままでした。
今はその「弱さ」を素直に出せるようになり、そのことで「強さ」に変えられるようになってきているかな。この話はまた別のところで。